エロゲというもう一つの世界、鬱ゲー「僕は天使じゃないよ」

変態ゲーム

エロゲというもう一つの世界

無料ですぐに消費できちゃうエロコンテンツが溢れかえった今の時代に、読書のごとき活字処理能力、ニートのごとき多大な時間、一作あたり数千円の支払い能力(気概)、時に不条理な展開への対応力の全てを求められる「エロゲ」やってる人は、相当気合いの入った変態なのでめちゃくちゃ信用出来る。

正直、今の時代にエロゲなんてやってる人、相当気合の入った変態だと思う。

高いし、時間かかるし、疲れるし。

じゃあなんでエロゲやるのかって聞かれると、もしかしたら、疲れたいのかもしれない。

架空のキャラクターとして日常の細部まで眺める。

ああ、この展開(イベント)だるいなあ。

とか、

この人(キャラ)の話くだらないなあ。

とか。

だからといってあまりに無下にしている(スキップしすぎる)と、後々厄介なことになる。

なんだか無駄に時間食う。

それってまんま、「人生」じゃん。

「人生」すぎて、とても疲れる。

疲弊し、麻痺した脳は、だんだんエロゲの世界を「現実」のように思いはじめる。

本よりも深く、没入していく。

要するに、エロゲをすることは、もう一つの世界で生きることだ。

だからこそ、現実に何か不満を抱えた人間の、逃げ込む場所になってくれる

逃げるって別に悪いことじゃない。

逃げるのが悪いのは、逃げた先が悪い場所の時だけだ。

ここはそんなに悪くない。

現実よりももっと尊く、もっと心地が良い場所だ。

そんな「もう一つの世界で生きる」感覚をはじめて与えてくれたのが、「僕は天使じゃないよ」だ。

いわゆる鬱ゲー。

恐ろしい偏見でモノを言うと、心に響く作品って全部「鬱」だと思う。

銀河があるから地獄があるのであり、銀河をもとめるから地獄が見えるのである

川村二郎『銀河と地獄 幻想文学論』,講談社

って言葉があるけれど、

私も、尊いものは、全部汚いものの中でしか見えないと思う。

鬱ゲー「僕は天使じゃないよ」の中にも、尊いものが、たくさんあった。

信仰なき魂の行方ー「僕は天使じゃないよ」

  • 作風:懐古調SMノベル
  • あらすじ:会員制秘密倶楽部「マスカレヱド」を巡る、退廃と倒錯の日々
  • 傾向:可哀想、鬱、死生観、背徳
  • ジャンル:ハードSM、哲学、ピアシング、調教、拘束、刺青、晒し、輪姦、スカトロ(小)
  • 所要時間:6時間前後(かなり短い)

ある物語を「ハッピーエンド」と感じるか、「バッドエンド」と感じるか。

それが人の本質を端的に表している、という妄想に常にとり憑かれている。

例えば、『ロミオとジュリエット』。

あの結末、私は何回読んでもハッピーエンドにしか思えない。

だけどバッドエンドにしか思えない人もいるわけで。

そういうのが、根本的な「違い」っていうものだと思う。

「僕は天使じゃないよ」は、恐らく一般的に「バッドエンド」と思われるENDに対しても、

主人公・市蔵の独自の感受性によって甘美な解釈が加えられる点がとても印象的だ。

舞台は大正末期から昭和初期の日本。

主人公の市蔵は作家であるが、金銭的な余裕はあまりなく、実家とも疎遠。

偶然寄付した少女・百合乃が孤児院で美しく慈悲深いマリアのように育つのをそっと見守る日々。

そんな中、会員制秘密倶楽部「マスカレヱド」に誘われて、そこで見世物として生きる刺青の少女・柘榴の退廃的な美しさにも惹かれていく・・・

しかし、「マスカレヱド」での倒錯的な見世物は、退廃的な美しさを好む主人公の意に反して、段々と醜悪なものになっていき、そこにも主人公は苛立ち、人生は劇的な方向へ・・・

信仰とマゾヒズム

SM界隈に謎に読書家や高学歴といった知的好奇心に富んだいわゆる「考えすぎちゃう」人が多いのは、マゾヒズムの語源・マゾッホの言う、「これからはもう何も考えなくてよろしい。私があなたの代わりに考えるからです。」という隷属の持つ「考えることの放棄」の構造に、何らかの憧れを抱くからだと思う

人間は、「考えることの放棄」に憧れる。

「神」であれ「ご主人様」であれ、或いは「仕事」であれ・・・

代わりに「判断」してくれる人を、人はどこかで欲している。

「素晴らしいおじ様、どうかどうか、これからも百合乃をお導き下さいー」

130cm「僕は天使じゃないよ」

「神」から「おじ様」へ、仕える対象を変えた百合乃から出たこの言葉に、

人間の「考えることの放棄」への憧れが端的に表されているように感じる。

考えることを放棄できるなら、人は何も迷うことも悩むこともないのだから。

倒錯に身を捧げる愉悦

生殖とは切り離された性行為、新しい生に受け継がれるものではなく、死に近づいてゆく行為

吉行淳之介『暗室』,講談社文庫

本当の官能とは、「生殖とは切り離された性行為」にしか宿らないと思う。

だから、倒錯的なものに、官能は宿り、それはすなわち「死に近づいてゆく行為」だ。

「マスカレヱド」は常に倒錯的だ。

そこには本当の官能が漂っている。

そんな「マスカレヱド」に、こんなに真っ直ぐに、身を捧げられる柘榴のことを、本当に美しく、そして羨ましく思った。

そして、さぞかし心地よいのだろうと思う。

それもまた、「信仰」に近いものなのだと思う。

「神になる」人々

主人公はどうだろう?

「主人」として、「判断」し、「与える」立場の男の心はどうだろう?

「自分で判断する」とは、裏を返せば「神になる」ことなのかもしれない。

信仰のない人なら尚更だ。

「僕は天使じゃないよ」は、常日頃、社会で「神になる」ことを強いられている我々に、その重さを教えてくれる。

信仰なき魂は、どこへ向かうのか。

いくつかのエンディングで、私はこの信仰なき魂の結末に泣いてしまった。

終わりに

「僕は天使じゃないよ」は、エロゲとしては異質な、淡々とした文体で物語が綴られる。

人生が台本通りであるかのように。

「僕は天使じゃないよ」は、夥しい倒錯の世界の中で、「何かに縋ること」の美しさを感じさせてくれる。

「主体性」を放棄した二人の少女こそが天使のように。

過度な没入感の作り出すもう一つの世界で、全ての非常識が許される。

そんな体験を、人生に疲れた時、是非ともしてみてください。

所詮世間は舞台に過ぎぬ。

そうだ、お前もなにかの役を演じずにはおれぬ。

精々歌うがいい、踊るがいいーーこの物語に端役はおらぬ。

130㎝「僕は天使じゃないよ」公式サイト

余談。「僕天」で人生狂った話

めちゃくちゃ余談ですが、

私は現実と虚構の区別がつかないので、このゲームを終えた直後、

現実世界の「マスカレヱド」を探して、会員制の謎のSM倶楽部に電話しました。

結局そこでは働かなかったのですが、そこから人生が狂いだしましたね・・・

「マスカレヱド」的世界は現実に存在するし、そこへ繋がってしまったのですよ。

そういうわけで官能と倒錯に全振りな人生になりつつあります。

詳しくはいつか書きます。

さらに、この元ネタかと思われる、あがた森魚の映画・歌「僕は天使ぢゃないよ」

→その原作の漫画『赤色エレジー』

→それが掲載されていたヤバい漫画雑誌『ガロ』

という経路で、私含め様々な人の趣味嗜好をヤバい方向に傾けさせているようです

危険注意。

FANZAでいっぱいエロCGのサンプルも見れるよ

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