文学的なエロ漫画ときたらまずもう外せないのが早見純先生。
文学って正しさじゃない。
そんなことを思い起こさせてくれる早見純先生の2004年の単行本です。
早見純先生『卑しく下品に』(2004)
初版:一水社 2004年

読む価値があるとか、読んで然るべきとかそんなごたくを並べるエロ漫画好きになりたいわけじゃないんだ。
体の奥が疼くかどうか、それだけを頼りに本を読み、その意味を知りたいと思う。
早見純先生の作品は、“疼く“という感覚に一番近い。
『私のような醜い娘』
初出:不明

ペニスが生えてこないことを「欠損状態」「奇形」であると父親に教え込まれ、箱庭の中で監禁状態で育てられた少女が、自らの「醜さ」を受け入れた時、思想の自由を手に入れる。
しかしやっと手に入れた自由とは裏腹に、父が掲げた「美しさ」に近づいていく…
“腐爛の聖女“のあり方に、美しさとは、不自由さのことと知る。
『セカンドインパクト』
初出:不明だが、『激しくて変Ⅲ』(2001年)に『ラストインパクト』として掲載

「西野亀造五十二歳 本日ただ今 魔がさしております」
無敵の人の描写で早見純先生の右にでるものは現在までただの一人もいないのではないかと感じさせるこの迫力。
飛び出す陰茎の照り感と唐突感に、陰茎という器官そのものの唐突さみたいなものが表れている。
「一は全、全は一とは何か、と聞かれたら私は早見純と答えるね・・・」というメモ書きがなされていたのだが、これは一体なんなのだろうか…
早見純を読んでいる時、人はまともでいられないのである。
『やさしい人』
初出:不明だが、『知的色情Ⅱ』(2002年)に掲載

素朴でやさしそうな彼の裏の顔がすごかったという話。
やさしい時の彼の顔はまったく性的な魅力を感じさせないのだけど、裏の顔と重なった時の彼の顔は、同じ造形のはずなのに妙な色気が漂う。
セックスと○人は同じなのかな…
『誰にも言えない』
初出:不明
しみったれたお父さんに誰にも言えないことをされている女の子の話。
陰茎、舌、這いずる手、全てがひたすら不気味なもののように描かれる。
何を思っているのか、容易にはわからない少女の表情が魅惑的。
『フィーリングカップル』
初出:不明
恋人とどうしても性交したい男の思念が遠隔セックスを可能にする話。
「性交したい」「交合したい」「交接したい」「結合したい」「合体したい」
と様々な呼び方で願望を連呼した後の、意を決したような「嵌めたい」という言葉選びにグッとくる。
『一冊二冊惨殺』
エロというよりは漫画描きの哀愁的なお話。
「今現在一般大衆に受け入れられているといっても普遍的真実がまったく感じられない!しかも作品にとって最重要な個性がない!」
という魂の叫び、本も漫画も基本的に自分でディグったものしか読まないひねくれ者の私としてはめっちゃわかる。
扉絵がめちゃくちゃ好き。
『君の錠に僕の鍵』
表紙の絵となった作品ぽい。
細マッチョキャラが新鮮。
正常なセックス、健全なセックス、要するに生殖のためのセックスだけをするとしたら、人はsexのために生まれたきたことになるという哀愁がある。
『醜学旅行』
貫禄のありすぎる風見君が、ちんぽがデカすぎるだけで修学旅行で無双する話。
札幌が舞台なので、出てくる「JYAHA HOTEL(札幌ミヤハホテル)」にモデルがあるのか気になる。
⭐︎『ハメごろしの記』
本単行本における私のベストフェイバリット。
姪っ子への歪んだ性欲と加虐欲で溢れかえった死んだ叔父の日記を姪っ子本人が見てしまう話。
日記がそのまま掲載という形式によって、読者も第一発見者のような気分になれ、凄まじくえっち。
「この憎しみの根源は何なんだろう」
と姪っ子が漏らすのだが、それはそのまま、早見純先生に私たち読者が抱く疑問だったりする。
もしも私がこんな日記を見つけたら、官能で卒倒してしまいそう。
でも、その人の頭の中で好き放題されることと、現実に手を加えられることには当然、大きな違いがあるから、私もやっぱり、姪っ子同様、
「死んでくれて本当にありがとう」
と思うのだと思う。
ここまで読んだみなさんには、是非とも最後のページを刮目してほしい。
ちなみに早見純先生は解説まで素晴らしい。
私は解説をオカズにする派なのでいつもお世話になっています。

『知的色情vol.2』
コメント